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  • コラム

日本統治時代から現代へ 新旧融合した台中を巡る(前)

2018/02/18 02:42

柳川東路、緑川西路、梅川西路――。中部・台中の旧市街地を巡ると、日本風情漂う道路名が目に入ってくる。

台中旧市街地は、日本統治時代に大規模な都市計画によって整備され、現在でも台中州庁や第二市場など当時の姿を残す建物が点在する。旧市街地を中心に日本統治時代の面影が残る一方、近年は自由な発想を持つ若者らによって、特色ある商店や取り組みも続々と生まれ、新たな風が吹き込まれている。記者は1月中旬、新旧が入り混じった台中市中心部を経済部中小企業処主催のメディアツアーで旅した。

日本統治時代に台湾総督、佐久間左馬太によって名付けられた「緑川」。台中市政府は近年、川周辺の景観整備プロジェクトに着手し、昨年には周辺の景観をブランドとして商標登録するなど川の再生に取り組んでいる。 今回のプレスツアーには日本人向けメディア4社が参加。台中のあまり知られていない工芸や新旧が融合した都市の魅力を紹介することで、日本からの個人観光客を呼び込み、地域経済の活性化につなげるのがねらい。シンクタンク、資訊工業策進会が実施した。

日本統治時代に台湾総督、佐久間左馬太によって名付けられた「緑川」。台中市政府は近年、川周辺の景観整備プロジェクトに着手し、昨年には周辺の景観をブランドとして商標登録するなど川の再生に取り組んでいる。 今回のプレスツアーには日本人向けメディア4社が参加。台中のあまり知られていない工芸や新旧が融合した都市の魅力を紹介することで、日本からの個人観光客を呼び込み、地域経済の活性化につなげるのがねらい。シンクタンク、資訊工業策進会が実施した。

日本統治時代の建物を再利用 観光名所に変身

台中市政府によると、台中旧市街地の範囲は、台中駅を中心として林森路と五権路、双十路に挟まれたエリア。このエリアは歴史的建築物を多く擁する一方で、地域衰退の問題に面しており、近年は古い建物を再利用し地域活性化を図る取り組みが市によって進められている。日本統治時代の1911年に建てられた台中市役所が2016年にカフェとして生まれ変わったほか、民間でも建物の再活用が広がっており、スイーツ店「宮原眼科」や「第四信用合作社」などは観光客から人気を集めている。

台中市役所(資料写真)

台中市役所(資料写真)

台中名物「太陽餅」の発明者、魏清海の子孫が営む「台湾太陽餅博物館」も日本統治時代の建築物を再利用した店の一つ。建物は1909年に薬局「全安堂」として建設され、100年を超える歴史を誇る。東京駅などを手掛けた建築家、辰野金吾が設計したとされ、赤レンガと白い花崗岩を組み合わせた「辰野式」と呼ばれる建築様式がみられる。

台湾太陽餅博物館

台湾太陽餅博物館

三代目の陳瑛宗・全安堂食品執行長(CEO)によると、元の所有者が建物を手放した後、廃墟として放置されていたところを購入し、1996年からこの場所で太陽餅の製造を始めた。当時は都市が最も没落していた時代で、太陽餅業者はどこも商売が苦しく、購入を決めたのは「建物が安かったから」と裏話を明かす。

「都市の発展において、政府が力を入れるのはハード面。(ソフト面の)革新には民間の力が必要」と陳さん。そこで2015年に同所を博物館としてオープンさせた。1階では自社製品のほか、地元の農家や職人が手掛ける商品を販売。2階には建物や太陽餅、台中の歴史を紹介するスペースを設け、台中の文化を伝えるプラットフォームとしての役割を果たしている。

三代目の陳瑛宗さん(中央)

三代目の陳瑛宗さん(中央)

◇開場100年の第二市場

台中市民の台所「第二市場」は日本統治時代から変わらずその機能を現代まで引き継いでいる貴重な場所だ。同市場は1917年に開場し、100年を超える歴史を誇る。当時は「新富町市場」と呼ばれ、日本人向けの高級品が販売された。現在でも、日本からの輸入品を売る店がいくつか見かけられる。2000坪以上もある場内には六角形の放射線状に通路が配置され、果物や野菜、肉など分類別にエリアが分かれている。

第二市場

第二市場

飲食店が立ち並ぶエリアに足を踏み入れると、「ルーローファン」(魯肉飯)を販売する店がズラリ。ただ、台北で見かけるルーローファンとは見た目が少し違う。台北では肉そぼろが乗ったものをルーローファンと呼ぶが、台中は肉そぼろではなく角煮。肉そぼろのものは、ルーザオファン(魯燥飯)と呼ぶという。また、店ごとに営業時間がずれており、このエリアでは24時間何かしらの食べ物にありつける。

「ルーローファン」(魯肉飯)を販売する店が立ち並ぶエリア

「ルーローファン」(魯肉飯)を販売する店が立ち並ぶエリア

◇日本統治時代から続く工芸に新たな風を

日本統治時代から残るのは建物だけではない。当時の職人技を受け継ぎ、さらに発展させようとしている職人たちもいる。

創業80年以上の歴史を誇る木工彫刻店「陳彫刻処」は時代の流れに合わせて商品を調整し、消費者との距離を近づけようと努力している。現在の店主で二代目の陳文才さん(67)によれば、父親である一代目は日本統治時代、台北・万華で商売を営み、欄間などの作品が日本人から好評を得た。施政40年を記念して1935年に開催された台湾博覧会では出品作が二等賞に選ばれたという。だが第2次世界大戦で店が壊され、一家は母親の実家がある台中へ移住。戦後の生活は苦しく、アイスキャンディーの棒やせっけん用の落款印を作ったりもし、商売を続けた。そんな中でも、台中に住むスイスの宣教師が店に買い物に来たこともあったといい、同店が手掛ける商品の品質の高さがうかがえる。

「陳彫刻処」二代目の陳文才さん

「陳彫刻処」二代目の陳文才さん

文才さんの後継者となる三代目の陳希彦さんは「どうすれば店を長く続かせていけるのか」を念頭に、新たな試みを始めている。その一つは、彫刻を学びたい人に技術を教える代わりに、その人の持つ能力を店に還元してもらうというもの。例えば、ホームページを作るのが得意な人にはホームページに関して協力をしてもらい、外国語に通じている人であれば、外国人客が来店する際に通訳をお願いする。希彦さんは同店を「工芸で交流する場所にしたい」と展望を語る。希彦さんが手掛ける若者向けのブランドと二代目が作る伝統的な作品という新旧の商品をともに長く続けていくのが目標だ。

「陳彫刻処」店内

「陳彫刻処」店内

創業70年の漆工芸店「光山行」も日本統治時代に伝わった工芸を現代に引き継ぐブランドだ。オタクを自称する三代目の頼信祐さんは流ちょうな日本語で店の歴史を紹介する。創業者は日本統治時代、香川県出身の漆芸家、山中公が台中に開設した漆芸学校で学び、東京芸術大に留学した経験を持つ。初代はネックレスや箸置きなど芸術品を中心に手掛けていたという。信祐さんが漆芸に本格的に取り組み始めたのは高校生の時で、父親らの助手として腕を磨いてきた。店が転換期を迎えたのは2016年。それまでは扱わなかった箸など日用品を製作するようになった。

関連記事:山中公氏を紹介する番組が日本で放送されたことも

「光山行」三代目の頼信祐さん。信祐さんによると、台中中心部と郊外の豊原が台湾で最初に漆芸が発展した場所。そのため、漆芸家もこの2つの地域に集中しているという。

「光山行」三代目の頼信祐さん。信祐さんによると、台中中心部と郊外の豊原が台湾で最初に漆芸が発展した場所。そのため、漆芸家もこの2つの地域に集中しているという。

日台の若手漆芸家との交流も進めている。昨年は35歳以下の台湾の漆芸家を連れて、東京芸大や金沢美術工芸大、京都伝統工芸大学校を訪問。今年は山中公の出身地、高松市の学校と交流する予定だという。現在、漆芸を学ぶ若者が少なくなっていると嘆く信祐さん。「大きく金儲けできるまでにはならなくても、交流を通じ、漆芸を手掛ける若者が生計を立てられるようにしたい」と産業発展に思いを込めた。

 

漆の箸。約1カ月かけて色を30層重ね、それをサンドペーパーで削ると模様が出てくるという。

漆の箸。約1カ月かけて色を30層重ね、それをサンドペーパーで削ると模様が出てくるという。


日本統治時代から伝わるものにはスイーツも。1938年創業の甘味処<strong>「幸発亭蜜豆冰店」</strong>で出される「蜜豆冰」(ミツマメアイス)は初代が日本人から教わって開発したものだとされている。だが、ミツマメとはいうものの、日本人がイメージするものとは少し違う。氷の部分にはバナナの香料が使われており、どことなく懐かしい感じの味わいが楽しめる。

日本統治時代から伝わるものにはスイーツも。1938年創業の甘味処「幸発亭蜜豆冰店」で出される「蜜豆冰」(ミツマメアイス)は初代が日本人から教わって開発したものだとされている。だが、ミツマメとはいうものの、日本人がイメージするものとは少し違う。氷の部分にはバナナの香料が使われており、どことなく懐かしい感じの味わいが楽しめる。


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